東京の喧騒を離れ、ひとり旅に出た女性がたどり着いたのは、深い山あいに湧き出る奥飛騨温泉郷。その静寂と湯けむりの中で出会った、ひとりの若き女将との偶然の邂逅(かいこう)―― 『湯上がり美人の郷(さと)』は、都会で傷ついた心が、温泉と人のぬくもりに癒されていく過程を描いた、心洗われるラブストーリーです。
高山市奥飛騨温泉郷・上宝地区の新穂高温泉を舞台に、地元の文化や食、そして“はんたいたまご”のようにじんわりと心に沁みる出会いを、繊細な描写とともにお楽しみください。
この物語は、「ヒダテン!Hit’s Me Up!」公式サイトをはじめ、Spotify、Amazon、Apple Podcastなど各種配信サービスでお聴きいただけます。また、「小説家になろう」でもテキスト版をご覧いただけます。
【ペルソナ】
・主人公:シズル(28歳)=東京のグラフィックデザイナー。失恋してふらりと旅に出た(CV:日比野正裕)
・若女将:ミオリ(24歳)=新穂高温泉の老舗旅館の娘。つい最近母を亡くして若女将に(CV:小椋美織)
【資料/新穂高温泉「新穂高の湯」】
https://www.okuhida.or.jp/archives/2204
【資料/濃飛バス「バスタ新宿→平湯温泉」】
https://www.nouhibus.co.jp/highwaybus/shinjuku/
ボイスドラマを聴く
ボイスドラマの台本
[シーン1:東京・新宿のカフェ】
◾️SE:カフェの雑踏
「さよなら」
「え?」
「今までありがとう」
「どういうこと?」
「じゃあね」
別れは突然やってきた。
初夏の足音が聞こえ始める頃。
新宿のカフェ。
2年間付き合ってた彼女は、最後通告をするなり店を出ていった。
追いかけることもできずに、頭の中は茫然自失。
自動ドアが静かに閉まり、朝の空気がすうっと入り込んでくる。
思えば、2年間彼女を待たせ続けていた。
なのに、口から出るのは思っているのとは反対の言葉。
「将来のこと?そんな未来のこと、考えたこともないよ」
本当は迷っていた。
自分の仕事で生活をしていけるのか 。
でも、彼女にはいつも軽口を叩いていた。
私の名前はシズル。
池袋のデザイン事務所で働くグラフィックデザイナー。
彼女は出版社の編集だった。
だった・・?
ああ、もう脳内では彼女との関係が“過去形”になっている。
他人(ひと)からはよく、”優しい方ですね”なんて言われるけど、
それって、褒め言葉じゃないよな。
今なら、よくわかる。
心の中はひどい天邪鬼だし。
彼女なんて、私のこと「ジャック」なんて呼んでからかってた。
これから、どうしよう・・・
まさか、デートの日、会ったばかりでフラれるなんて、考えてもいなかったから。
そういえば、デートの行き先、最近はいつも彼女が考えてたっけ。
これか。こういうのが、たまってたんだなあ・・
だめだ、負のスパイラルに迷い込んでしまっている。
落ち着いて、まず、身の回りのものを見てみよう。
いま、持っているのは・・・スマホと・・スマートウォッチと・・ノートパソコン。
と、あんまり中身の入っていない・・財布。
これで、なにができる?
どこへいける?
どこへ・・・?
冷めたカフェラテをすすりながら、ふと顔をあげると、
視線の端に巨大ビジョンのサイネージ。
『湯上がり美人の郷(さと)』
いいコピーだな。
どこだろう・・・奥飛騨温泉郷(きょう)?
それって、どこだっけ?
高山?
岐阜県高山市・・・
今日中に着けるのかな・・
スマホでサクっと調べてみる。
あ、新宿から高速バスが・・・
出発は?
11時5分。
間に合うな・・・
[シーン2:平湯温泉バスターミナル】
◾️SE:バスターミナルの雑踏
「さむっ」
奥飛騨って・・標高高いんだな。
にしても、平湯温泉まで片道5時間か。
距離にして300キロ弱。
道中、長かった・・・
だって、彼女のこと考えて、全然寝れなかったから。
まあ、いいや。
時間はたっぷりあったから、どこへ行くかも決めておいたし。
奥飛騨温泉郷(きょう)・・じゃなくて、奥飛騨温泉郷(ごう)の新穂高温泉。
乗合バスで30分か。
ちょうどいい距離感だな。
目的は、立ち寄り湯。
ポスターのビジュアルがその『新穂高の湯』という温泉だった。
露天の岩風呂。
ゆったりと湯浴みをする女性の後ろ姿。
後ろ姿なのに、湯けむりの向こうで微笑んでいるのが伝わってくる・・・
ような気がした。
平湯バスターミナルで、温泉卵を食べながらコーヒーを飲む。
食べ終わる頃に乗合バスがやってきた。
[シーン3:新穂高の湯】
◾️SE:湯浴みの音/湯気の滴る音/川のせせらぎ/カワセミの声
「あ〜〜〜」
「いい気分」
「来てよかったぁ」
新穂高の湯。
本当に野趣あふれる大自然の中の露天風呂。
こんなとこが、あるんだなあ。
ポスターに惹かれてきちゃったけど、実物の方が何倍もいい。
シズル感。
デザインをするとき、よくこの言葉を使う。
私の名前と同じ。視覚を刺激して表現する手法。
さんざん使い倒したけど、現実のパワーにはかなわない。
くだらないことを考えるのはやめて、
ゆっくりと目を閉じる。
湯あたりするまで、入っていようかな。
なんて、考えていたとき。
「失礼します」
え?
なに?なに?
おそるおそる目を開けると、岩風呂の反対側で若い女性が湯に浸かっていた。
しかも、裸で・・・
って、当たり前か。お風呂だから。
な、な、なんで?
「あ、ご存知なかったですか?
ここ、混浴なんですよ」
こ、こ、こんよく〜!?
「みんなちゃんとマナーを守って、いいものですよ。混浴って」
知らなかった。
人生初の混浴。
しかも、こんな若い、美人の女性と・・・
って、いやいやいや。見てない見てない。
顔しか見てないから。
いや、正確に言うと、顔というよりその愛くるしいえくぼ、かな。
焦って緊張しているの、きっとバレバレ。
私が湯あたりしそうになっているのに気づいたのだろう。
彼女は、
「お先に」
と言ってあがっていった。ほんの短い時間だったと思う。
彼女の姿が岩場から消えるのを見届けてから、私はあわてて湯から上がる。
そそくさと着替えて、外へ出ると、彼女もちょうど帰るところだった。
「あ、あの・・・」
「はい?」
しまった。思わず声をかけてしまった。
言葉を続けないと・・・
「この近くに、今日泊まれる宿ってないでしょうか?」
「宿?」
「どこも予約せずにここまで来てしまったものですから」
「まあ」
「今日、なんか、午前中から、いろいろあって・・」
あ、関係ないことを。
私は何を言っているのだろう。
「それなら・・・うちへいらっしゃいませんか?」
「う・・ち・・?」
「うちは、小さいけど、温泉宿をやってるんですよ」
「ああ、そうなんですか・・」
「今日は、お客さん少ないから、よければどうぞ」
「そ、それじゃ」
「夕食までは少し時間あるから、散策でもしてからおいでなさい」
そういって、彼女は旅館の名刺を手渡した。
目の前に見える北アルプスの名峰にちなんだ名前。
こんな、旅の偶然もいいかもしれない。
湯けむりの向こうに沈む夕陽が、薄暮を茜色に染めていた。
[シーン4:老舗旅館】
◾️SE:温泉宿の引き戸/適度なざわめきの館内
「いらっしゃいませ」
「あ」
玄関の真ん中。
仲居さんたちの中心で私を出迎えてくれたのは、
「ゆっくり散策、できましたか?」
「は、はい・・」
今日は、よく驚かされる日だ。
新穂高の湯で出会った彼女・・・
しっとりとした藍色の着物姿で・・・
この老舗旅館の女将さんだったのか・・・
「さ、さっきは・・」
お礼を言おうとする私の目を見て、彼女は自分の口に指を当てる。
そっと近づき、私の耳元で、
「夕方の忙しい時間にさぼってたこと、バレちゃう」
と囁き、いたずらそうな笑顔でウィンクした。
思わずまた、ドキっとしたけど、私は小さくうなづいてフロントへ。
彼女が言ってたとおり、今日はお客さんが少ないみたいだ。
この宿は、屋内の大浴場のほかに
混浴露天風呂や貸切露天風呂が6つもあるらしい。
すごいな。
自分の知らないことがこんなにあったなんて。
私は、夕食前に、屋内の大浴場でさっと身体を洗って、髪の毛を乾かした。
お風呂上がりのしっとり感を楽しみながら夕食の部屋へ。
料理を運んできてくれたのは、なんと彼女、女将さんだった。
一品ずつ丁寧にメニューの説明をしてくれる。
山里からの恵みで満たされた八寸、岩魚のどびん蒸し、塩焼き、マスの昆布シメ・・
こんな料理を口にするのは何年ぶりだろう。
美味し過ぎて泣けてきそうだ。
「メニューを考えたのは先代の女将なんですよ」
「そうなんだ。先代はご隠居されて?」
「いえ、母は先月亡くなりました。それで急遽私が即席の女将になったんです」
「あ、ごめんなさい」
「やだなあ、謝らないでください。私が始めた話ですから」
そう言って申し訳なさそうにえくぼが笑う。
「どうぞ、ゆっくりしていってくださいね」
「ありがとうございます」
答えながら、先附を食べていなかったことに気づく。
蕎麦サラダには温泉卵が乗っていた。
このへんでは、はんたいたまご、と言うらしい。
おもしろいな。
私のことみたいだ。
確かに、白身が固まりかけているのに、黄身が半熟、
という、”はんたい”になっている卵だもの。
温泉の熱で温める、本物の温泉卵だ。
でも、知らなかった。
温泉卵、いや、はんたいたまごって、こんなに美味しかったんだ。
なんか、ヘンだな。
ご飯食べてるだけなのに、目頭が熱くなってくる。
今日はいろいろあったから。あり過ぎたからか。
お風呂も料理も最高。
こんな素敵な宿が、こんな山の中にあるなんて、
人生って知らないことばっかりだ。
食事の間、女将は何度も私のところへ来て、いろいろな話をしていった。
大学を出て東京で働いていたのを、母の病気で呼び戻されたこと。
誰よりも朝早くに起きて、誰よりも遅く床につくこと。
自分より年上の従業員を、まとめていく難しさ。
そして、夕食前の外風呂での息抜き。
なんか、フラれたくらいで、気分が落ち込んでたのが、
ばかばかしく思えてくる。
彼女の瞳の中の輝きは、いまの私には眩し過ぎた。
[シーン5:露天風呂】
◾️SE:湯浴みの音/湯気の滴る音/川のせせらぎ/虫の声
「すごい・・」
深夜遅く。
誰もいない露天風呂で、岩を枕にして眺める夜空。
満天の星。
ポスターのコピーじゃよく使ったけど、本物を見たのは初めてだ。
星座には詳しくないけど、北斗七星があんなにはっきり・・
あのへん、きっと「春の大曲線」とか「春の大三角」って言うんだよなあ。
川のせせらぎがここまで聞こえてくる。
「ああ、帰りたくない。いつまでもここにいたいなあ・・」
「いればいいじゃない」
「え・・?」
「ごめんなさい。なんか、聞こえちゃった」
「いらしたんですか」
「はい。
このお風呂はね、もともと男湯と女湯に分かれていたの。
それをつないで混浴にしたんです」
「ああ」
「脱衣場も離れてるし、気づかずに入ってる方多いみたい」
「確かに」
「今日はありがとうございます」
「いや、こちらこそ」
「それにごめんなさい」
「え?どうして」
「なんか、いろんなこと喋って、ぶつけちゃった」
「ううん、私の方こそ、楽しい時間でした」
「まだ話し足りないくらい」
「どうぞどうぞ。朝まで時間はたっぷりあるし」
「うふふ・・あのね、・・
はんたいたまごをあんなに美味しそうに食べる人、初めて見たの」
「あ・・」
「嬉しかった」
「本当に美味しかったから」
「私、人に自慢できるのって、はんたいたまごを上手に作ることくらいなんですもの」
「へえ」
「母が病気で、こっちに帰ってきたとき
なんにもできなくて、毎日泣いてたんだけど」
「うん」
「母がね、あんたは最高のはんたいたまごが作れるんだから、それでいい、って」
「そうなんだ」
「だから、嬉しかった。母と同じように褒められてる感じがして」
「正直言って、今までの人生で一番美味しい食べ物だったかもしれない」
「もう〜、それは言い過ぎ」
「いやホント」
「ははは・・・ありがとう」
「こういう時間の過ごし方、私には夢のようだよ」
「ほんと?」
「うん、夢なら覚めないでほしい」
「じゃあ、もっとゆっくりしていったら?」
月明かりの下、彼女のえくぼが笑う。
湯上がり美人の郷に帷が降りる。
まるで御伽噺のように、物語は進んでいった。
翌朝、私はチェックアウトせずに、会社へ連絡を入れた。
しばらく出社せずに、リモートで仕事をすると。
彼女は、少しだけ不安そうな表情で耳をすませていた。
それからのことをひとことで表現すると、”夢から覚めない夢”。
時間はあっという間に過ぎ去り、季節も移り変わっていく。
私は私のペースでゆったり仕事を受けるようになり、
大切なものを育てていった。
[シーン6:温泉の食事】
◾️SE:宿のなんとなくのざわめき/川のせせらぎ
「いらっしゃいませ。
え?
ああ、はい、美味しいでしょ。はんたいたまご。
それ、女将の自慢の料理なんです。ありがとうございます。
あ、そうです。帳場で赤ちゃんを抱いているのがうちの女将。
私の妻です」
人生は、はんたいたまご。
白身から固まることもある。
いいお湯。いい温泉から始まる物語があったっていいじゃないか。
でも、私はもうはんたいたまごではない。
ジャック返上。
心の底からこの瞬間を楽しんでいる。
愛おしそうに子供を抱く妻が、あの日と同じえくぼで微笑んだ。
私の名は、シズル。
今は、奥飛騨、シズル。