「蛟」

1912年――明治から大正へ。
野麦峠を越えていた工女たちの姿が消えようとしていた頃、美女ケ池のほとりで炭焼きの青年・惣太が見つけたのは、記憶を失った不思議な女性でした。
「私は……私はだれじゃ……」
彼女の名は、水波。
囲炉裏の炭火。
焼きたてのヤマメ。
美女峠を渡る風。
そして、失われた記憶の向こうに眠るもの――。
「ずうっとここにおればええ」
人と神が出会い、家族になったとき、止まっていた記憶が再び動き始める。明治から大正へ。
歴史と伝承の狭間に描かれる、飛騨の幻想譚・・・

【ペルソナ】※舞台設定は明治45年/大正元年〜大正三年の春〜夏
・水波=みずは(年齢不詳/CV:蓬坂えりか)=記憶を失った女性。実は水の女神、水龍   の化身
・惣太=そうた(25歳/CV:日比野正裕)=朝日村で一人炭焼きを営む住む寡黙な青年
・澪=みお(2歳/CV:坂田月菜)=惣太と水波の娘。半人半妖

【シーン1/美女ケ池行き倒れ】

・少女の姿をした記憶喪失の龍神・水波が美女ケ池のほとりで倒れている
・冬に備えてナラ材を切り分けた木こりの惣太が運搬路を整えるため通りがかって発見する

◾️創作・糸引き唄(※唄:蓬坂えりか&坂田月菜)
※音声/https://hidaten.com/wp-content/uploads/2026/09/itohikiuta.wav

〽ハァー 野麦(のむぎ)越えるときゃ 雪さえ溶ける 溶けぬ涙が エーヨー 胸を突く
〽糸を引きましょ お国のために 親に仕送り エーヨー 果てるまで

真っ暗な闇の中から『糸引き唄』が聞こえてくる。

『お国のために、家族のために』

吹雪の美女峠。
工女たちの足音と、唄声。

ああ、そうだ。覚えているとも。

粗末な単衣(きもの)を何枚も重ね着して、
三幅前掛け(みはば/まえかけ)を帯代わりに結んだ生娘(むすめ)たち。

頭には手拭いを巻いて、脚には脚絆(きゃはん)。
足袋の上からわらじを履いて、雪の峠を超えていく。

美女峠は、過酷な道行きの入口。
家族と離れ、野麦峠へと向かう『十三見送り(じゅうさんみおくり)』。
『永の別れ』をねぎらうために、私は少女たちに餅をふるまった。

親も子も、泣きそうな顔で『うまい』『うまい』と言うておった。

最後の工女行列を見送った冬。
役目を終えた私はどうなるのだろう?

いや、そもそも、『私』とはだれなんだ?

記憶の上に、果てしない忘却の雪が降り積もる。
冬が終わり、春の足音が聞こえてくるまで・・・

「おい、あんた!大丈夫か?生きてるか!」

底なしの闇の中から、誰かが私を呼び覚ます。

暗い。冷たい。水の底。
ただ揺蕩(たゆた)うだけの深い眠りを覚ます響き。
胸の奥がぎゅっと締め付けられるような・・・
記憶の彼方から届く声。

私は、閉じていた瞼を、ゆっくりと押し上げる。

「おお、気がついたか」

視界に飛び込んできたのは、眩い木漏れ日。
そして、私の顔を覗き込む一人の男。

荒れた手、煤けた衣服、私を見つめる、強い眼差し。

炭焼きの男。

その口から言葉が漏れる。

「びっくりしたぞ。
あんた、草むらのなか、美女ケ池の水際で倒れとったんや」

「美女が池・・・」

「ああ。
真冬なら今頃生きちゃおらんやろが」

「私は・・・私はだれじゃ・・・」

男は眼を丸くして驚き、そのあと言葉が続かない。
私も男と目が合った瞬間、再び、忘我の眠りに落ちていった。

【シーン2/惣太の炭焼き小屋】

◾️虫の声

「ああ、よかった。
眼を覚ましたな。生きてたんだ」

「虫の声・・・もう夜か・・」

「ちゃうて。
あんた、3日間眠ってたんや」

「三日・・・
ん?ここは・・・どこじゃ?」

「オレの家や。炭焼き小屋。
美女ケ池からはそう遠くない」

「・・・そうか・・」

「自分のこと、思い出したか?」

「私・・私は・・・」

「まあええわ。
ゆっくり思いだしゃええ」

「ああ・・・」

「腹へったやろう?」

私の返事を聞く前に、男は囲炉裏に向かった。
火吹き竹で消し炭を煽ると、またたく間に赤い火が熾(おこ)る。
煤けた鉄鍋に山の湧き水を注ぎ、自在鉤(じざいかぎ)に掛けた。

「オレは・・・惣太だ」

半身(はんみ)を起こした私に、男が名乗る。

「見ての通り、ここで炭を焼いとる」

話しながら、山菜を豪快につかんで鍋に入れた。
そのまましゃがみ込んで火吹き竹を強く吹く。
すると、眠っていた炭がパッと赤く色づいた。

月明かりだけだった小屋の闇に、ぼおっと赤い炎が灯った。

「いまは辛抱のときやけどな。
冬になれば、高山の町から炭問屋の手代がここまで買い付けにくるんや」

惣太は生簀(いけす)代わりの木桶から、元気のいいヤマメを取り出す。
手早く腹を裂いて塩を振る。
手慣れた仕草で、竹串に刺し灰のなかに勢いよく突き刺した。

「オレの焼くナラ炭は町でも評判がええんや。
火持ちが最高だそうだ。
岡谷にある製紙工場のボイラー係も『オレの炭じゃなきゃ湯の沸きが悪い!』
つって、わざわざ指名してくるんやさ」

惣太の言う通り、炭火は勢いを増していく。
パチパチと爆ぜる炭の音。
脂の乗った魚の香ばしい匂いが煙とともに小屋を満たしていった。

「金儲けだけやないぞ。

美女峠の頂上に休憩小屋があるやろ。
あそこにもオレの炭をおろしとる。
こっちは利益なんて度外視や。
峠を越えて野麦へ向かう工女たちのためやから・・・

みんな、この先、地獄のような山越えをするんや。
少しでもぬくとうしてやりたいやないか」

惣太は背中を向けて焼いたヤマメをひっくり返す。
何回か繰り返すと、今度は頭を下にして垂直に立てた。

「そやけどなあ。
それももう終わりや。

去年・・・明治44年の5月に、国鉄の中央線が全線開通したやろ。
これで、工女たちはもう野麦の峠を越えんでもようなった。
中津川の坂下駅まで歩いていって、そこから汽車に乗って岡谷へ一本や。

ほんとうによかったわ・・・

おりゃあ、胸を撫で下ろしてるんやけどな、なんやちょっと寂しゅうて。
工女たちの行列がもう二度と見られんと思うとなあ・・・」

惣太が寂しそうな顔をしながら、焼き上がりを確認する。
ヒレまで綺麗に白く焼き上がったヤマメの塩焼き。

小屋の中にはもう美味しそうな匂いが充満している。
惣太は串を抜くと、私の前へ突き出した。

「さあ、焼けたぞ。食え。
とにかく食って、精をつけろ」

私は串を受け取り、そのままかじりつく。
それを見た惣太は安心したようにまた話しだす。

「このあと、どこへ行くんや?」

私が何も答えず、ひたすらヤマメにしゃぶりついていると・・・

「まあ、ほんなことええわ。ゆっくりしていけばええ」

そう言って、鍋の中に地味噌をひとつまみ入れる。
木杓子(きじゃくし)で鍋をかき回すと、大きなお椀にすくって私の方へ差し出した。

「これも食べろ」

「惣太の分は?」

「オレは腹が減っとらん」

そう言って背中を向けた。
後ろを向いたまま、ボソっと呟く。

「なあ・・・無理にとは言わんが・・・
もし、行くあてがないなら・・・
ずうっとここにおればええ」

「わかった」

「ほんとうか?」

満面の笑みで振り返る。
それが可笑しくて、可愛くて、私も思わず笑ってしまった。

そのとき・・・

「あぶない!」

「え?」

「このやろう!」

そう言って、惣太が踏みつけたのは、大きな百足!
私は・・・恐ろしくて、声も出ない。
惣太は震えが止まらない私を抱き寄せる。

「なんや。意外と怖がりなんやな」(※笑いながら)

どうしてこんなに恐ろしいのだろう。
意味がわからず震えていると、惣太は、

「なあ、やっぱり・・・ここにいてくれや」

そう言って私を強く抱きしめた。
月明かりに照らされる2つの影。
ただ虫の声だけが、賑やかに、激しく、鳴り響いていた・・・

【シーン3/3年後/惣太の炭焼き小屋】

◾️野鳥の声

「かあさま、びじょがいけまであそびにいってもいい?」

「気をつけるのよ。水のそばには近寄らないでね」

「はあい!いってきます」

娘の澪が元気よく小屋から飛び出していった。

あれから3年。
私は惣太と夫婦となり、月日を重ねた。

明治から大正へ。
元号が変わって最初の夏。
私は惣太の間に娘をさずかった。

記憶は相変わらず曖昧だったが、
澪が生まれて、名前を決めたとき、
不意に自分の名前が浮かんできた。

水波。

名前を思い出したことを惣太は心から喜んでいた。

「水波。澪。
意味はようわからんけど、どっちもきれいな名前やなあ」

でも、その瞳の奥に見えたのは小さな闇。
きっと私が記憶を取り戻すことを、心のどこかで怖れていたのだろう。

だが、惣太の不安とは逆に、私の記憶はだんだんと鮮明になっていった。

「それにしても、今年はなかなか雨が降らんのう」

惣太にとってもうひとつの不安は渇水。

言葉通り、この年、朝日村を空前の日照りが襲った。
美女ケ池の水位は下がり、山はカラカラに乾いていく。

「ほんの少しでも火の粉が飛べば山全体が火の海になる」

惣太はこう言って、炭を焼く回数を減らした。
それなのに、

「立ち木が猛暑と渇水で、干割れ(ひわれ)し始めた。
割れてまうと、炭を焼いてもスカスカで、売り物にならん」

日照りは私たちの生活を追い詰めていく。

そんな残暑きびしい、ある夜。
乾いた山に雷が落ちた。

たちまち山火事が発生。
火は私たちの炭小屋まで広がってくる。

異変に気づいた私はすぐに、寝ていた惣太と澪を起こす。

「どうした?水波」

「火事よ!山火事!」

「なんだって!」

私たちは、寝巻きに上着を羽織って表に出る。
澪は怖がって震えている。

「炭小屋はあきらめよう」

「だめよ!そんな!
・・・惣太!澪を連れて美女ケ池へ!」

「え?・・・水波は?」

「私もすぐに行くから」

「かあさま!」

「大丈夫だから心配しないで。
澪、とうさまの手を話しちゃだめよ」

「澪、大丈夫だよ。怖くないから!」

「さあ、早く行って!」

「水波・・」

私は、2人を見送ったあと、炭小屋の後ろまで迫っている炎と向き合った。

パチパチと爆ぜる不穏な音。
風に乗って炭焼き小屋へと近づいてくる猛火。
気づいたときには、周りの木々は炎の壁となっている。
惣太の愛したナラ林は容赦なく呑み込まれていく。

私は、大きく息を吸い込んだ。

天を仰ぎ、両腕を大きく広げると、私の身体が青白く光りだす。
光は、大きく、長く、天へと伸びていく。

人の衣を脱ぎ捨てた蛟は、炎の渦を突き破って虚空へと舞い上がった。
天に向かって、とぐろを巻くように光がうねっていく。

すると、それまで雲一つなかった夜空に、みるみる灰色の雲が立ち込める。
同時に稲妻が黒い空を切り裂く。
天地を揺るがすほどの雷鳴。

その直後、バケツをひっくり返したような雷雨が、地面へ突き刺さった。
雨粒は炎を叩き潰し、立ち上る白煙が山を真っ白に包み込んでいく。

まるで炭小屋を守るように、背後の森に降り注いだ豪雨。

気がつくと、小屋の前で私は呆然と立ち尽くしていた。
間一髪で火の手を免れた炭小屋。
だが、ほっとしたのも束の間、惣太の悲鳴が私の頭の中に直接響いてくる。

「澪っ!澪〜っ!!」

え?
なに!?

私は慌てて美女ケ池へ向かう。

恵みの雨は、思わぬところへ牙を剥いていた。
山火事を叩き潰すほどの苛烈な雷雨。
行き場を失った大量の泥水は、凄まじい勢いで美女ヶ池へと流れ込んだ。

惣太が増水した池に腰まで浸かって叫んでいる。

「澪っ!」

「惣太!どうしたの!?」

「美女ケ池が溢れて、澪が流された!」

「ええっ!?」

「澪っ!澪〜っ!!」

もう、迷うことも、隠すこともない。
私は惣太が見ている目の前で、両手を天に伸ばした。

美女ケ池の水は、竜巻のように天に吸い上げられていく。
水位が下がっていくと、濁流の中でもがく澪が見えた。

「水波・・・」

「惣太!早く澪を!!」

呆然として私を見つめていた惣太が我に帰る。
池に飛び込み、澪の元へ。

ほどなく、澪を抱き抱えて岸に戻ってきた。

私は、ようやく胸を撫で下ろし、そのまま、腕の力を抜いた。
たちまち、池に水が戻ってくる。

澪を抱いて私の元へ駆け寄ってきた惣太は、

「水波。おまえは・・・」

そう言って二の句が告げない。
私は、小さく息を吸い込んだあと惣太を見つめて口を開いた。

「おまえはいったい・・・?」

「惣太、ごめんなさい。
澪を・・・澪をお願いします」

「水波、待て・・・待ってくれ!」

必死で引き止める惣太を振り払い、私は美女ケ池へ入っていく。
それまでカラカラに乾いていた空気が湿り気を帯びる。
まるで私の涙のように。

この世のものとは思えない、深い霧が
私と美女ケ池を包み込んでいった・・・

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